クラマトルスクからドイツへ向かう列車 (写真提供 ナタリア)

<前書き>

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は国土を荒廃させ、平穏に暮らしていた市民から日常生活を奪いました。侵攻開始以来、周辺国へ逃れた300万人を含めて1000万人のウクライナ人が避難生活を余儀なくされており[1]、topuniversities.comによればそれら避難者の多くは大学生だということです。[2]

テンプル大学ジャパンキャンパス(東京都世田谷区/学長:マシュー・ウィルソン、以下TUJ)は、ロシアの侵攻によって国外に逃れたウクライナの学生を受け入れるため、新たな奨学金制度を開設しました。学内に選考委員会を設け、申請者の学業成績と英語力を基準に審査を行った結果、TUJでは2022年の秋学期から9名の学生に1年間の授業料と生活費、および住居(学生寮)を提供することとなりました。

TUJ広報部は、ウクライナ人学生にインタビュー取材を行い、学生が体験してきたこと、抱いている夢や希望、さらに日本への留学を通じて達成したいことなどを語ってもらいました。それぞれの体験談は、避難者として外国で勉強する学生の姿を浮き彫りにし、学びに富むものです。彼女らのストーリーをより多くの方に知っていただくため、TUJはインタビュー記事をシリーズで紹介することとしました。初回はウクライナからの避難や日本に来るまでの経緯を取り上げ、この後も日本の第一印象、TUJでの学び、文化の違いへの適応、ウクライナ復興にどう貢献していきたいかなど、さまざまなエピソードを紹介していきます。


第1回 ウクライナからの避難ー安全な場所を求め続けて

想像を絶する苦難を乗り越え、それぞれの道をたどって日本にやってきた9名のウクライナ人学生は、その多くが母国で身の危険にさらされ、家を失ったり経済的に困窮したりといった苦境に立たされています。中には、早々にウクライナから周辺の国へ避難した学生もいます。学生たちのほとんどは、家を離れるのも自分で決断するのも、飛行機で旅をするのも今回が初めての経験だといいます。

侵攻開始当時、カリーナはスームィ州立大学でビジネスを学ぶ大学生、ナタリアはキーウ国立文化芸術大学でジャーナリズムを専攻する大学生でした。爆撃から逃れるため家族と共に故郷を離れた彼女たちは、これから自分たちの身に何が起こるか見当もつかなかったといいます。

速やかな決断で助かった命 <カリーナ編>

侵攻開始の前日2022年2月23日。カリーナ・シェブーズは家の近くの士官学校から軍用車が撤去されるのを目撃しました。ロシア兵は2月24日に町にきました。彼女が住むスームィ市はウクライナ北東部にあり、ロシアとの国境に近い場所です。そんな位置関係のため、特に爆撃が始まった後の住民の不安は募るばかりでした。市内にある士官学校が標的になったからです。カリーナの一家はまず唯一窓のない部屋である浴室に、それからは地下室に隠れていましたが、一刻も早く逃げる必要性を察し、間もなくスームィ郊外に避難。彼女の友人たちからは脱出に関するメールがいくつも来ていました。

「最初の2日間はまともな食事はできず、スナック菓子のようなものだけ食べて過ごしました。都市部では朝5時に爆撃が始まり、午後2時には兵士を見かけました。窓の外には戦車も見えました」

ウクライナ北東地区からフィンランドへ、カリーナの足取り
ウクライナ北東地区からフィンランドへ、カリーナの足取り

彼女は一緒に逃げるよう母親と祖母を説得。保険会社に勤めていた母親は仕事を辞め、母親の知り合いがいて、頼れる可能性があるフィンランドのヘルシンキへ行くことにしました。一家はスームィを出発し、バスと電車を乗り継いでウクライナのキーウ、ポーランドのワルシャワ、そしてリトアニア、ラトビア、エストニアを経由し、最後はフェリーに3時間揺られてヘルシンキへ到着。危険なロシア国境から遠ざかる3日間の行程は、恐怖の旅でした。到着後、カリーナは、一軒家に他の避難者20人と共に寝泊まりすることになります。小さな子どもが多かったため家の中は賑やかで、カリーナが大学の勉強をしたりオンライン授業を受けたりするのに適した静かな場所はありませんでした。

イチゴ農園で働くカリーナ (写真提供 カリーナ)
イチゴ農園で働くカリーナ (写真提供 カリーナ)

カリーナの一家は6か月間ヘルシンキで暮らし、その間仕事もしました。早朝から夜10時までイチゴ農家で働いたこともあります。そこで彼女が得た1日の最高収入は、なんとウクライナの月給の最低賃金と同じ200ユーロ。 高収入を得られたのは、賃金の支払いが時給9ユーロの時間単位ではなく(収穫したイチゴの)キロ単位だったからです。

「フィンランドの賃金はウクライナよりずっと高いので、生活するのに十分な収入を得ることができました」

やがてカリーナには現地でも友人もでき、生活を楽しむ余裕も出始めました。毎日があっという間に過ぎていったそうです。

「イチゴの収穫は給料がかかっているので競争みたいなもの。とにかくスピードが大事なんです。一列の片側を一人で担当するのですが、ぐずぐずしていると他の列を摘み終わった人が自分の列に来てしまうの。自分のイチゴを誰かに取られないように、できるだけ早く摘まなきゃいけません。とにかく早く多く収穫しようと、ある種のゲームのような感覚でした。毎日があっという間だったのはそのせいかもしれません」

イチゴ農家の仕事以外にも、カリーナはウクライナ人が近所のショッピングセンターで言葉の壁を感じていることに気づき、ボランティアの通訳も務めていました。あるとき避難後もオンラインで受講を続けていた大学からTUJの奨学金の案内を受け、勉学を継続したいと考えていた彼女は申請を決意します。先生たちはとても協力的で、必要な書類を用意するのを手伝ってくれました。そして届いた合格通知には、「おめでとうございます。あなたは奨学金を獲得しました」の文字があったのです。

カリーナはこの縁を何かの運命だと感じています。彼女は毎年誕生日の1月1日に「今年の目標」を家族に発表しますが、2022年は「海を見たい」「外国に行きたい」だったのです。皮肉にもロシアのウクライナ侵攻により、彼女はフィンランドと日本という世界の両端の国を旅することになりました。

新たな旅立ち ヨーロッパから日本へ <ナタリア編>

ナタリアは、2014年にロシア軍がクリミアに侵攻し、彼女の住む町クラマトルスクを4か月間占領したときのことを今でもよく覚えていると語ります。2022年2月24日の侵攻開始は、ロシアによるウクライナ攻撃の第2ラウンドの始まりを意味すると、彼女にはわかっていました。それでも最初のうちは数日で終わるだろうと思っていたため、一家で10時間も浴室に隠れたことも。しかしその後、爆撃が数週間にわたって続くと、父親から、母親と一緒にドイツに向かうよう説得されます。そのころにはウクライナはどこもかしこも危険で、出国する決意をしました。

キーウ国立文化芸術大学4年生のナタリアはジャーナリズムを専攻し、テーマはメディア研究です。彼女は卒業までウクライナに残り、学位取得を果たしたいと望んでいましたが、それは戦争のためかなわなくなりました。故国を離れることを余儀なくされても、彼女の心はいつもウクライナとその人々たちと共にあるといいます。

侵攻後のナタリアの通っていた高校の内部(写真提供 ナタリア)
侵攻後のナタリアの通っていた高校の内部(写真提供 ナタリア)

父親はSNSを駆使し、ウクライナ国外にナタリアたちが滞在できる場所を見つけてくれました。そうしてドイツ西部ホンブルクに向けた旅が始まります。故郷を離れるドイツのベルリン行きの満員列車に乗り込んだとき、彼女の所持品はノートパソコンと着ている服だけでした。

ウクライナには短距離・長距離あわせて広大な鉄道網があります。ナタリアと母親が乗ったのは個室寝台列車でした。1つの個室に2つの2段ベッドがあり、4人家族の利用を想定したものでしたが、このときは、子どもや犬を含む14人がこの狭い空間に詰め込まれることになりました。もちろん食事の提供などなく、36時間の旅の途中で食べものはほとんどなし。300ミリリットルの水の配給を2人で分け合ったことを、ナタリアはつらかったと振り返ります。

駅をはじめ鉄道インフラがロシアの攻撃の標的となったにもかかわらず、ウクライナの鉄道は多くの人々にとって安全な場所へと避難するための数少ない手段でした。ナタリアは「列車は私たちを西へ、ウクライナの中でも安全な地域へと運んでくれた」といいます。とはいえ彼女は、その列車がどこへ向かっているのか、どこが終点なのか知りませんでした。列車は安全状況が変わると方向を変え、サイレンが鳴ると停車して待機し、次の場所に移動することを繰り返したからです。

クラマトルスクからドイツへ、ナタリアの足取り
クラマトルスクからドイツへ、ナタリアの足取り

「列車は何度も止まったし終着駅もわからなかったけれど、着いて宿を探せばなんとかなるだろうと思っていました」

ドイツに逃れたナタリアは、母親と共に安全な場所にたどり着き、ようやく胸をなでおろしました。ホンブルクという小さな西部国境の町に5か月間滞在しました。ウクライナで爆撃と鳴り響くサイレンの中で1か月を過ごした彼女は、ドイツの平和と静けさに逆に慣れることができなかったそうです。「何が起こったのか理解できず、毎日怖くて目が覚めた」という彼女は、毎晩ウクライナの夢を見て、すぐにでも故郷に帰りたい思いでいっぱいでした。しかし、唯一ドイツ語を話せるナタリアを家族が必要としていたので帰るわけにはいきません。 

ナタリアはキーウ国立文化芸術大学の講義をオンラインで継続する一方、ドイツ語の勉強もしなければなりませんでした。ドイツ政府は一時的に保護されたウクライナ人に対し、「インテグレーションコース(ドイツ語やドイツの歴史・地理・政治などを学ぶもの)」の受講を義務付けており、ナタリアは1日4時間、週5日の授業を受ける義務があったからです。

彼女は、ふと、自分はいったい何をしているのか、なぜ、大学の専攻を中断してドイツ語を勉強しているのか、と悲しくなったと話します。ジャーナリズムの勉強を続けたかったナタリアは、空き時間に勉強を続ける方法がないか、奨学金プログラムを探し続けました。しかし、ほとんどが理系の学生向けで、彼女のようなクリエイティブ系の学生対象のものはなかなか見つかりませんでした。もともと日本の奨学金に応募することは考えていませんでしたが、TUJというアメリカの大学の日本校が提供する奨学金のことを知ったナタリアは、このチャンスに挑戦してみようと決めました。

「申し込んだのはたしか締切の前日でした。 日本はヨーロッパからあまりに遠く、(留学先としては)考えたこともありませんでしたが、思い切って挑戦することにしたのです」

申請書を作成して応募し、結果を待ちました。しばらくすると、TUJから「おめでとうございます。あなたは奨学金を獲得しました」というメッセージが届きました。この日のことをナタリアは「信じられないような朝でした。この数か月間でいちばん大きな驚き。私の人生を変える出来事でした」と振り返ります。

実はナタリアは最初、日本が地理的にも心理的にもあまりに遠い国だったため、これはもしかしたら詐欺かもしれないと疑ったそうです。TUJのウィルソン学長と担当者の名前をインターネットで調べ、彼らが実在する大学の人物だと確かめるなど、両親にそのニュースを報告するまでに3日かかったといいます。さらに、学長と担当者とのオンライン面談に臨み、実在する人たちで何も問題がないことを確信。安心して日本留学を決断しました。いよいよドイツを離れて日本へ向かうときのことを、ナタリアは「暗闇から光が差し込むようだった」と話してくれました。

ナタリアとカリーナは他のウクライナ人学生と共にTUJで秋学期から学生生活を送っています。二人とも、勉学に励みながら東京での生活も楽しんでいます。学校での生活にも慣れ、寮も気に入っているそうです。東京の街はとても清潔で地下鉄の車内はとても静かだといいます。ナタリアは東京を「まるで別の惑星のようにすばらしい」と表現しています。カリーナは、ドキュメンタリー番組でしか見たことのなかった渋谷の交差点を実際に歩いてみて大興奮。東京の高層ビル群も「インスピレーションを与えてくれる」と話しています。ナタリアもカリーナも東京での生活に慣れ、秋学期学業に勤しんでいます。

[1] Jake Epstein (2022, March 19) Business Insider The number of Ukrainians displaced by Russia’s invasion has swelled to nearly 10 million, UN agencies say https://www.businessinsider.com/un-nearly-10-million-ukrainians-displaced-by-russian-invasion-2022-3New Tab
[2] Craig O (2022, March 24) QS Top Universities Which universities are offering support to students displaced by the Ukraine crisis? https://www.topuniversities.com/student-info/university-news/which-universities-offering-support-students-displaced-ukraine-crisisNew Tab


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