教務担当副学長のジョージ・ミラーが、テンプル大学ジャパンキャンパス(TUJ)と彼の東京での新生活について月に一度のコラムをお届けします。今回は、新天皇の初の一般参賀のため皇居を訪れた時のこと、その帰路テンプル大学の卒業生に偶然出くわしたエピソードをお届けします。


私たちは日比谷公園に自転車を止め、通りを渡って皇居の方へと歩いて行きました。警察官が私たちを呼び止めて、皇居外苑を通って皇居に入るための列はもう人でいっぱいだと教えてくれました。

桜田門の方を試してみたら、とその警察官は笑顔で勧めてくれました。

妻と私は、初めての一般参賀の日に新しい天皇陛下を見るのは難しいことは予想していました。だから朝の8時30分に来たのです。新しい時代の幕開けは、皇族のファンや歴史的なイベントに興味のある人々にとっては大きな関心事であることはわかっていました。

私たちは通りに沿って進み、歩行者用の橋を渡り、桜田門を通って皇居内へ足を踏み入れました。するとすぐに持ち物検査を行うセキュリティーチェック用のテントへと誘導されました。私たちは二人とも何も持っていなかったので、簡単にチェックポイントを通過し、すべてが順調にいっているように思えました。紙で作った日の丸の小旗が手渡され、もしかして午前10時の最初の一般参賀を見られるかも?と期待が膨らみました。

しかしそれからは、そこに立ったままでした。

私には新しい天皇を見るべき特別な理由はありませんでした。皇族のファンではないし、血統のみを理由に皇族をあがめる気持ちもありません。ただ単に適切な時代に適切な家系に生まれたというだけで、尊敬に値する人などいませんし、肩書きだけを理由に異なる扱いを受けるに値する人もいません。

しかし長年ジャーナリストをしてきた人間として、私は重要な出来事の現場に自分を置くことが習慣となっています。自分で体験するチャンスがあるのに、他の人のレンズを通して処理された情報を受け取りたくはないのです。

そして今、天皇が退位しその息子が皇位を継承するこの稀有な瞬間に、日本人とのハーフの私は東京に暮らしているのです。

私たちは、2カ所のチェックポイントの間の狭いスペースで約1時間ほど待ちました。家を出る前に飲んだたくさんのコーヒーのことが心配になってきました。そして太陽が高く昇るにつれて、短パンではなくジーンズをはいて来たことを後悔し始めました。

私たちの周りにいた人たちはじっと動かずに立っていて、ほとんど黙ったままでした。約97%の人たちが日本人だったと思います。年配の方たちはしゃがみ始め、今やギラギラと照りつける太陽から身を守るために、何人かの人は頭の上からジャケットをかぶっていました。

警察官が私たちを2番目のチェックポイントへと呼びました。早く行けば、より早く天皇を見られるかのように、セキュリティー用のテントに向かってダッシュする人もいました。私たちは警察官のかざす金属探知機をくぐり、それから長いロープで仕切られたエリアへと足早に進んでいきました。そこは何千人もの人が辛抱強く列に並んで順番を待つ、家畜用の囲いのような場所でした。

太陽が雲間から見え隠れする中、私たちはそこで待ち続けました。汗をかきながらそこで立っている間、「天皇の役割とは一体何なんだろう?21世紀において、国と国民にとっての象徴とはどういうことなんだろう?」ということに思いを巡らせました。

存命中は裕仁天皇として知られた昭和天皇は、第二次世界大戦での日本の敗戦までは生きる神と考えられていました。戦後、彼の地位はゆるぎないものではありましたが、人々からは遠く離れた存在でした。

父の昭和天皇の跡を継いで天皇に即位した明仁天皇は、災害の被災者と面会するなど、国民によりお近づきになりました。明仁天皇と美智子皇后(当時)は膝をつき一般の人々と対話しました。それは100年前には想像もできなかったようなことです。

明仁上皇の息子で、現在の天皇である徳仁陛下は十代の時にオーストラリアを訪問なさり、妻の雅子皇后と同様に、オックスフォード大学への留学経験もおありです。相対的に見てお二人とも現代的な考えをお持ちのようで、今後天皇・皇后としてどのように務められていくのかを考えるとワクワクします。日本がよりグローバル化、人々が多様化することを期待なさるでしょうか?日本社会での女性の役割を擁護するでしょうか?

全く動かずに90分ほど待った後、警察官が私の居る列の人たちに、石橋を渡って、宮殿の敷地内に入る番が来たと伝えました。

私は大声で「やったー!」と叫びました。

声を上げたのは私だけでした。

そこからも、正門の狭くなっているところに差し掛かって、列はゆっくりとしか進みませんでした。そして正門鉄橋を渡って、ようやく皇居の宮殿前へとたどり着いたのです。

私は喉が渇いて、疲れて、イライラしていました。たくさんの見知らぬ人と肩を寄せ合って3時間も立っていれば誰でもそうなるでしょう。それでも、何万もの人が集まり、国旗を振って興奮しているその群衆の中にいるのはワクワクする体験でした。

それから45分ほど、さらに多くの人々が宮殿前に集まり、ラッシュアワー時の田園都市線のようにぎゅうぎゅう詰めになりました。

正午になると新天皇がマイクの前へと進み、観衆に微笑みかけました。天皇の横には、様々な淡い色合いのドレスとそろいの帽子を身に付けた8名の女性を含む皇族方々が居並びました。

観衆は熱狂し、紙の国旗を振っていました。天皇が少しお言葉を述べ、皇族の方々が観衆に手を振りました。

わずか数分の出来事でした。

その後も数分ほど多くの人が国旗を振り続け、一部の熱狂した人たちから「万歳!万歳!万歳!」の声があがりました。

宮殿前を出て、人混みを抜けるのに30分ほどかかりました。外苑を歩いていると、私と妻は一人の女性から呼び止められました。テレビ朝日の人でインタビューをしたいとのことです。数分ほどインタビューに応じ、終わってから私は彼女に名刺を差し出しました。

「あっ、私テンプル大学ジャパンキャンパスの学生だったんです」と、彼女は言い、「フィラデルフィアの本校でも1学期勉強したことがあります」と続けました。

興味深い朝の素敵な締めくくりでした。

あの日の興奮を体験できたことをうれしく思っています。これから長い間、人々にあの日について語ることになるでしょう。

そして、それから私たちは日本で有名になりました。その日の晩のテレビ番組「サタデーステーション」に登場したのです。