教務担当副学長のジョージ・ミラーが、テンプル大学ジャパンキャンパス(TUJ)と彼の東京での新生活について月に一度のコラムをお届けします。今月は、彼と一緒に東京に来ることができなかった親友についての話です。
祖母から「ねえ、犬が欲しくない?誕生日プレゼントに買ってあげようと思ってるの」という電話がありました。
2003年1月のことです。私はフォトジャーナリストの仕事を3カ月休み、修士論文を完成しようとしていました。私の誕生日はそれから2カ月後でした。
「今は無理だよ」と答えました。
修士号を取ることに集中しなければいけない時期で、それが終わったらイタリアで7週間教鞭をとる予定になっていました。
「いま手いっぱいなんだ」と祖母に告げました。
祖父と祖母は私のために子犬を買おうしていて、すでに一匹選んであると言いました。
「今は無理なんだ」ともう1度言いました。
祖母はわかってくれたようで、短い会話の後、電話を切りました。
2日後にまた祖母から電話があり、
「金曜日に子犬をひき取りに行くのだけど、一緒に行く?」と誘われました。
私は当惑しました。
「今、仕事を休んでいるんでしょ?」と祖母は言いました。
休んでいるのは卒論のためなんだ、と答えました。
「まあいいから一緒に見に行きましょうよ」と祖母は言いました。
私は折れました。
数日後、私はメリーランド州ライジングサンの居間で、元気な赤ちゃんシーズー犬の残したくずに囲まれていました。子犬のブリーダーである女性が、祖父母が選んだ小犬を私に手渡しました。子犬は私の胸をはい上がって顔をなめました。私が笑って顔をそらすと、今度は耳をなめました。
私の人生が永久に変わった瞬間でした。
ムーキー・ミラーは2003年1月29日に私の人生に加わりました。3.8パウンドで、私の手のひらにおさまる大きさです。生後2カ月でした。彼はうさぎが跳ねるように歩き回りました。それまで見た中で最も無邪気で楽しそうな生き物でした。
数日のうちに、彼は私が行くとこ行くとこ、どこにでも付いて回るようになりました。彼の視界には常に私がいました。私はその後3カ月間のほとんどをムーキーと遊ぶことに費やし、家や庭で追い回されました。疲れると私たちはソファの上に倒れ込み、私は腹ばいになって彼は私の背中の上で寝ました。
私の卒論はひどいものに終わりましたが、私はソウルメイトを見つけたのです。私が仕事に戻らなければいけない頃には、もう私たちを切り離すことはできませんでした。
私はあらゆる所に犬を連れて行く人の一人になりました。勤務先の新聞社、当時教えていた大学、友人宅、ソフトボールの観戦、レストランなどなど。
友人に子どもが出来たとき、彼らはムーキーは私の息子のようだなと冗談で言いました。その通りです。
トロントで野球を観に行ったり、チェサピーク川でボートに乗ったり、ニューヨークのセントラルパークで散歩したり、その他いろいろな所へ行きました。
2007年にテンプル大学で教え始めた時も、ムーキーは私に同行しました。私たちは学校まで1マイルほど歩き、私が講義中彼は演台の後ろで寝ていました。時々目を覚まして歩き回り、前列の学生の笑い声が聞こえました。
誰もが13パウンドのモップのような犬のムーキーを撫でたがりました。学生や行き交う人たち皆がいつもムーキーを撫でようと手を伸ばしましたが、彼はすぐに背を向けました。私は、ムーキーはヘアスタイルを台無しにされるのが嫌なんだと(これは家族に共通の傾向でしたが)冗談を言いました。しかし現実には、彼はたった一人の人間の関心が欲しかったのです。それは私です。
私の生活はムーキーを中心に回っていました。これは興味深い変化でした。私は以前自分の中心となるものを持ち合わせていませんでした。私は多種多様なことをしてきましたが、私のアイデンティテイを定義するものはありませんでした。ムーキーが私のアイデンティティになったのです。
ムーキーは私に、彼のニーズを最初に考えるように教えました。それにより私は自分が他の人々のために何が出来るかを意識するようになりました。そして私はムーキーに対してしたように、自分のことよりまずほかの人のことを考えるようになったのです。ムーキーの存在は、私により良い人間になろうという気持ちを起こさせてくれました。
ムーキーはフィラデルフィアのベンジャミン・フランクリン橋の下に座り、ニュージャージー行きの電車が頭上を通るのを待つのが好きでした。電車の音が聞こえると、私たちは2つか3つのブロックを全速力で走って追いかけました。
2012年1月、私たちが数ブロック走った後、ムーキーは円を描いて歩き、横に倒れこみました。彼は一瞬意識を失いましたが、すぐに悲痛な鳴き声を上げて目を覚ましました。すぐに回復はしたものの、彼は混乱し、私はとても心配しました。
彼は僧帽弁障害という心臓の病気があることがわかりました。心臓専門医は、漏れやすい弁を治すために薬を処方してくれましたが、もうフリスビーを追いかけることはできないだろうと言いました。おそらくもう1年の命ということでした。私は絶望しました。
私は頻繁に旅行に出ることを止めました。ムーキーを1人にすることはほとんどなくなりました。彼は私がフィラデルフィア周辺の大学で講義をするときは同行し、学部長との会合に出席し、私が音楽雑誌を立ち上げてからは、一緒にコンサートに行ったりもしました。
薬によって彼の症状は安定しているようでした。彼はフリスビーを追い続けました。それから何年にもわたり様々な病気に見舞われましたが、その度に回復しました。
2018年の春、私はここ東京での仕事をオファーされました。ここに来ることは長年の夢だったので、私はワクワクしました。でも、ムーキーをどうしましょう?
私は彼を東京に連れてくるための手続きについて調べました。6カ月にわたるテストと証拠書類の作成に加え、12時間の検疫が必要です。私はプロセスを始めましたが、その2カ月後には東京に引っ越さねばなりませんでした。4カ月間は私の息子と離れることになります。
難しい決断でしたが、この機会は二度と来ないかもしれません。私はムーキーを彼が愛する私の元パートナーに託し、遠く離れた所から彼の旅の計画を立てました。
去年の11月、ムーキーが東京に引っ越す予定の約6週間前に、彼はまた別の健康上の問題にぶつかりました。その時私は、心臓病の病歴を持つ16歳の犬を、16時間飛行させるのは過酷だと判断しました。ムーキーはフィラデルフィアで生涯を終えることになるでしょう。
私は彼がとても恋しいです。過去1年間に4回彼に会いに戻りました。彼はまだ私を愛していて、あらゆる所についてきます。年をとった息子と別れるたびに、それが最後になるのではないかという恐れを抱きます。
私は、テンプル大学での職務と日本の家族のそばにいる機会を得るために、親友との時間を犠牲にしました。その犠牲が無駄に終わらないように、ここで確実に違いを生み出そうと一生懸命働いています。
私は現在も未来も、可能な限り最高の毎日、最高の瞬間を過ごそうとします。
そうしなければならないのです。ムーキーのために。